【オパール ギャラリー起業ストーリーvol.30】独立への序章①

僕は、このブログのスタートでもお話ししたように、
35歳になったらどんな事情やどんな状況でも、ベンティンさんを退職することをお約束した上で
20歳の時に入社させていただきました。

自分の中では、実家が商売屋さんだったので自分の人生もお勤めではなくて自分で商売をするものだ、
と幼い時からそう思ってきましたので、ベンティンさんに入社させていただく段階でも、
ずっとお勤めさせていただきたいとは
思っていなかったのと、そもそも親の会社を継ぐのではなく、
自分の力で独立して何かをするにつけても35歳を区切りとしようと、
心に決めていて、できるとかできないとか、
何をしたいとか全くアイデアもなかったのですが、小学生の時に
将来は何になりたいですか? はい、社長ですと言い続けてきたので、
両親は家業を継ぐつもりだと思っていたと思います。



でも僕は中学になる頃には親の会社を継ぐという
選択肢は、僕の中から消えていたのを今でも思い出しますが、理由は
ありません。
よく言う親の決めたレールに乗っかることは
自分の中では格好悪いと子供心に思っていて、今思えばその答えは
子供だったからだろうと思います。

30歳を超えた頃にこの国に永住することが許される
永住ビザをいただくことになりました。

絶体絶命!さあどうなるの僕の将来・日本帰国?



実はこれにも色々なことが起きたのですが、
25歳ぐらいの時にベンティンさんで今後も働いていくためには、
永住ビザに切り替えていかないと、
将来が会社にとっても未確定要素の塊になるので、
永住権を取りましょうということになったのです。

この時代は永住権を取るには、現在のような具体的な線引きがなく、
いやあったのですが曖昧で、運がよければすぐ永住できるし、
そうでなければ、何年もビザの取得までに時間がかかる、
そんな状況で、言ってみればダメ元みたいな感覚だったと思います。

1年が過ぎ、2年が経とうとした頃、突然シドニーの本社から
今からすぐに帰宅してください、ビザの申請に不都合が見つかり、
労働することが許されません、
今すぐに会社から全ての業務を取りやめて出てください。。。

まるで地震や何か恐ろしい天災でも起きたかのような電話で、
人事部の女性がパニックになっていたんです。

意味不明ですが、仕方がないので一旦帰宅しましたら、
会社から、実はビザの申請をお願いしていた、その当時は弁護士さんなのですが、
僕の名前を間違えて申請書類を提出していて、
該当する名前の人間が移民局の資料に存在せず、僕はワーキングホリデービザの後
ビジネスビザを取得していたのですが、
そのビジネスビザは2年前に失効していて、
ルール上僕は不法滞在者になっていたことを
社長の指示で人事部がビザの進捗状態を調べたら、
弁護士のこの許されざるミスに気が付いたとのことでした。

幸いにも移民局は気が付いていなかったようで?
こちらからの申し出だったのでそのまま強制送還とかにはならず、
修正した書類に差替えていただくことを
秘密裏にお役人さんに手を回して、この難局を打開をしたそうです。

噂ですが、相当な接待をしたそうです。 噂です。

そんなことがあって、結局審査に時間が余計にかかり、
5年目にはいったところで、まさかの不許可が出てしまったんです。

もうそれはそれは社長を怒らせてしまったようで、大金を払って申請して、
弁護士の間違いでまたまたお金が相当かかり、その上のことですから、、



速攻で最終手段の移民局の判断に対する異議申し立てを行う裁判になり、
裁判所で永住権の許可か不許可かを審議していくことになったんです。

強く信じて疑わず


裁判所に出廷して審議に立ち会いましたが、
その時になっても僕の中でビザが下りないわけがないって、
根拠もなく信じていた僕は、本当に不思議なんですが、
裁判では会社がこうして大きくなって、
総理大臣賞を3年連続でいただいたことも全て僕の手柄となり、
僕に永住権を与えないことは日豪間の利益の直接的な損失になるが、
裁判長はそれでいいのか?と
滅多やたらに強気なこちらの弁護士の主張がそのままその場で通り、
無事一件落着、永住権が付与されることになったのでした。

これでオーストラリアで独立をして起業するということの基礎が出来上がったんです。
もちろんそれまでは日本に帰国して起業をするという可能性もあったわけですが、
なぜか、自分の中ではその想定はありませんでした。

つづく

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